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「現実認識とは何か――形相的理念型による啓蒙」

 

雑誌『情況』「特集 ヴェーバーを読む」2000.7.所収

橋本努

 

 

 

0.はじめに

 

 われわれはときに、「いま・ここ」にある現実の生を究極的な価値としてつかみ取りたいと思うことがある。だが逆にわれわれは、「いま・ここ」にある現実の生がすべてではないという感覚から、現実の背後に回ってみようとか、別の現実を構成してみようとか、あるいは現実に得られるはずの満足を抑圧しようとか思うことがある。こうした欲求はいずれも、なるほど人生の然るべき時期において生じる自然な衝動であるだろう。しかしいったい、「われわれは『現実』をいかに認識すべきか」という認識的かつ規範的な問題を立てるならば、それはきわめて人生論的なテーマであると同時に、社会科学的認識の根本問題を提起するように思われる。

 近代社会とともに生じた社会科学は、「社会」なるものの規範的特徴を明らかにすると同時に、「いま・ここ」の現実がもつ偶然性と偏狭性を超えることを目指してきた。近代社会におけるわれわれの生は、「いま・ここ」に限定されてはならない。言いかえれば、「いま・ここ」にある現実や生というものを、無媒介に肯定して認識してはならない。むしろそこから抜け出て、普遍的な認識の観点を獲得することこそ、「社会-科学」が陶冶する生の理念である。われわれの生は潜在的にはもっと可能な世界に広がりうるのであり、究極的には「啓蒙された主体」としての善き生を求めて、自らの生と社会全体を超越的な観点から展望しなければならない。社会科学はこのように、近代という時代の要求と並行して、一方では「いま・ここ」なる現実をたえず超越しつつ、他方では普遍的で展望的な認識への意志(欲求)を掲げることによって、社会の現実に対する認識をたえず変容させてきたのであった。

 ここでいう「現実(リアリティ)」とは、さしあたって、自らの生を支える環境的世界と定義することができるだろう。近代社会のみならず、社会が大きく変動するところでは、現実(環境的世界)に対する認識のあり方もまた大きく変容する。そしてそのような社会過程においては、自らの人生を支える意味世界をどのように構成していくかという問題が、一つのメタ問題として成立する。実際、例えば、「日常的現実」の肯定と否定、「生」の肯定と否定、あるいは「新たに獲得された現実」の根拠づけと虚構化、といったテーマは、現実に対する意味付与の問題(現実をどう捉えるかという問題)として、文学的・学問的な関心を多く集めてきた。社会科学とりわけ社会学における一つの中心テーマは、こうした現実世界の変容を理論的に理解することにあると言えるだろう。本小論ではこの大問題について、ウェーバーの議論を素材にしつつ、認識による「現実の構成」という観点からアプローチしてみたい。具体的には、「生の現実」「日常的現実」「概念的現実」および「規範的現実」という四つの現実について検討しつつ、現実と主体のかかわりについて考察していく。

 

 

 

1.生の現実と日常的現実

 

 「生の現実」とは、つねに具体的かつ個性的に与えられる現実であり、原理上、汲み尽しがたい経験によって与えられた多様性の体験である。それは内包的にみた場合、無限の多様性をもつものとして存在する。言いかえれば、生の現実は、果てしない流れの中にあり、意味を確定することができないような混沌である。こうした無定形の現実は、日常生活における定型化された意味世界とは異なり、より体験的に直接な、したがって意味が不確定ではあるがそこから様々な意味を汲み出していくことができるような現実としてある。生の現実は、なるほど非日常的な体験において現れることが多いが、しかし日常的現実が目まぐるしく変容するような変動社会においては、日常空間そのものがダイナミズムをもっており、そうした日常においては生の現実を体験する機会も少なくない。また「生の現実」は、必ずしも「いま・ここ」という局所的現在に限定されるのではなく、生き生きとした生活の連関や時間的経緯を含んでおり、その限りにおいては「生活圏」と重複する。

 別の言い方をすれば、「生の現実」とは、日常であるか否かにかかわらず、「生きている」という感覚がもたらす現実である。それは意識的に経験されるというよりも、身体で体験されるものであり、それ自体としては意味や因果性の分節化を伴わない。それゆえ「生の現実」は、無限に多様な方向で「カテゴリー」や「概念」へと加工することができるのであり、それはいわば、意味的世界や社会認識の基底として存在する。

 リッケルトのいう「経験的現実」は、以上に規定した「生の現実」に相応するだろう。「経験的現実は、われわれには見極めがたい多様であり、われわれがそれに沈潜しそれを細かく分析しはじめるに応じて、その多様性はますます大きくなるように見える」[Rickert 1898=1939:66]。ここでリッケルトが指摘している多様性は、学問的な概念構成の営みにおいて、概念と現実との複雑性の落差において現れるような、汲み尽しがたい「生の現実」である。

また、リッケルトが生きた一九世紀から二〇世紀にかけてのドイツでは、ヴェナリウス、マッハ、ヘッケルに代表される「自然主義的実証主義」が台頭していたが、そこにおいて想定される現実もまた、われわれのいう「生の現実」に相応する。すなわち、その教義によれば、感覚的知覚の世界の背後には、原基的な因果連関の織地があり、そこにおける事象生起の流れこそが「現実」である。各々の現象は、その一瞬前に無数の部分的原因をもち、そして今度はそれ自身が次の瞬間に無数の現象の協同原因となる。因果関係は分かち難くもつれあっており、無構造である。また、すべての因果関係は、その重要度において等しく「現実」である。自然主義的実証主義においては、「どの因果関係がより現実的か」という程度の問題は、存在しない。対象の表象としての「現象」を認識するためには、現実を思惟によって加工しなければならない。そしてその加工は、現実そのものから正当化されることはない。自然主義的実証主義はこのように、現実というものを汲み尽くし得ない因果連関の流れとして捉えたのであった。

こうした現実に対する捉え方は、ウェーバーにおいても通底している。ウェーバーが「現実」を捉えるため採用した方法論は、新カント派よりもむしろ、自然主義的実証主義の流れに影響されていたとみなすことができる。それは激しく流動する現実の中で、「現実の構造喪失」という当時の世界認識を反映したものであると考えられよう。

「生の現実」は、しかし、日常生活においては隠蔽されていることが多い。日常とは、持続性、反復性、親密性、狭域性といった特徴によって捉えられる領域であり、そこにおいては一定の生活が自明なものとして繰り返され、生き生きとした現実は抑制されてしまう。日常的世界においては、繰り返される因果性の中で理解すべき「日常的現実」というものが成立している。「日常的現実」とは、日常生活を営むための当事者的理解の様式であり、日常用語の諸カテゴリーによって掴まれたもう一つの現実である。友人、上司、会社、家族などのカテゴリーは、厳密に定義された意味を持たなくても、日常生活を維持していくために必要なかぎりで意味を持っており、生活に一定の親密性を与えている。

 そのような日常的現実のカテゴリーは、一方では「生の現実」を隠蔽するが、しかし他方では、社会科学的認識の素材を提供する。探求による加工に先だって存在する因果関係は、「生の現実」における「意識化されない無数の因果連関」だけではない。それは、日常生活を営む当事者の生活意識に媒介された因果連関の解釈を含んでいる。社会科学はまずもって、当事者の行為とその意識に照準するので、日常的現実を第一の研究対象としている。

 

 

 

2. 概念的現実

 

 では、「生の現実」と「日常的現実」の二つから、われわれはいかにして社会的認識を構成するのであろうか。「歴史的事実」や「社会秩序」といった現実は、「生の現実」や「日常的現実」の次元では捉えられないようなレベルにある。そのような現実は、どのようにして理解されるのだろうか。

ウェーバーによれば、認識というものは「概念構成的(discursive)」な性質をもっているが、これとは別に、概念構成的ではない「生(生活)の言葉(Sprache des Lebens)」による理解というものが存在する。そしてその言葉によって、われわれは、個々の具体的な歴史をそのまま十分に述べることができるという。しかしそのような「生(生活)の言葉」は、「どういう観点において意義をもつのか」という問題に関して、意味が不明確であり、偶然性を帯びている[Weber WL:209『客観性』150頁]。言葉の意味を明確にし、また偶然性を免れた規定を言葉に与えるためには、われわれは認識によって概念を構成しなければならない。言い換えれば、言葉の意味を明確に認識するためには、概念構成的な手続きをふまえなければならない。

 概念の構成によって理解される現実を、ここでは「概念的現実」と呼ぶことにしよう。なるほど一般に、概念によって構成されたものは、フィクション(虚構)であり、現実を認識するための手段であり、仮説的性格をもつと考えられている[1]。しかし概念は、それがうまく構成された場合には、もう一つの現実となる。ウェーバーは次のように述べている。

 

「歴史は『現実科学』ではあるが、それは決して何かある現実の全内容を『模写した』という意味においてではなくて――それは原理的に不可能である――、ある現実の中の、そのものとしては概念的に単に相対的にしか確定されない部分を、『実在的(reale)』な構成部分として、具体的な因果連関の中にはめ込むという、まったく別の意味においてである」[Weber WL:113『ロッシャー』231-32頁]。

 

ここでは「概念」というものが、たんなる虚構ではなく、実在的な性格をもちうると考えられている。その場合、「実在的」と呼ばれる概念的現実の領域は、「他でありうる可能性」を否定して、確定された因果連関をもたらす点に、特徴がある。

 では、他でありうる可能性(偶有性)を否定して「概念的現実」を構成するためには、いかなる方法的手続きが必要なのであろうか。「概念的現実」の構成は、まず、日常的なカテゴリーによって理解される現実への参照を必要としている。日常的現実は、概念構成によって得られた「法則的経験知」の妥当性を与えるための基礎である。

  第二に、「概念的現実」を構成するためには、「可能的世界」への積極的なかかわりが必要となる。現実の因果連関を構成する場合、われわれはまず、日常的なカテゴリーによって理解された現実の構成要素の中から、いくつかの要素を取り上げて、それをいくつかの条件に照らしつつ、実際とは異なる過程を(いわば想像心象によって)思惟的に構成しなければならない。後に述べるように、この作業は理念型の構成によって可能となるが、われわれは、現実とは異なる可能的世界への参照によって、現実の因果連関を「他ではあり得ない」ものとして確定することができるようになる。つまり「可能的世界」は、現実の因果連関を一定の法則論的な観点からまとめあげる際の方法的手続きとして、要請されている。

 第三に、「概念的現実」を構成するためには、「生の現実」にも参照しなければならない。例えば学問研究の方針を確定する作業において、われわれは汲み尽しがたい「生の現実」に遭遇することがある。というのも、現実を概念的に把握する方向もまた、無限の可能性に開かれており、さらに、日常的現実は社会過程の中で変容していく以上、概念的現実を一定の日常的なカテゴリーから確実に構成することはできないからである。それゆえ、学問的認識の妥当性は、必ずしもカテゴリー的現実としての日常的世界から構成されるのではなく、「生の現実」にも参照される必要がある。前述したように、現実の因果連関は、「生の現実」のレベルにも存在している。「生の現実」は、それ自体が説明する対象なのではなく、認識観点や理論モデルを構築するための観点を選択する際に、いわば手続的に通過しなければならないものとして、要請されている。

 また第四に、リッケルトに倣えば、概念的現実の構成は、「異質的不連続」への変形という方法によって獲得されると言うことができる。現実は、「連続性の原理」と「異質性の原理」という二つの原理によってその捉え方が異なる。「連続性の原理」とは、現実ははっきりとした絶対的限界をもたないとみなす考え方であり、これに対して「異質性の原理」は、完全に同じものはないとする考え方である。リッケルトによれば、現実は、そのいかなる部分においても「異質的連続」であるから、それをあるがままに概念に取り入れることはできない。概念構成においては、現実をたんに模写したり純粋に記述したりすることはできないのであり、連続性と異質性を概念的に分離して、同質的連続と異質的不連続へと変形することが必要となる [Rickert 1898=1939:68-71] 。

 その場合、概念的に一義的な内容を与えるためには、具体的・個性的・質的特殊性をもった表象可能な経験的現実から次第に遠ざかり、「普遍的に妥当する」概念を構成しなければならない。しかし他方において学問的認識は、現実を、質的な特徴をもった特殊性と一回性において捉えることを課題としている。そこで、概念が普遍的妥当性と一回性・特殊性を同時にもつことはいかにして可能か、ということが問題となる。この問題に対して、リッケルトおよびウェーバーは、「普遍性」を「歴史的なもの」と解釈すること、すなわち「普遍史」を構成することによって、解決しようとする。

 一つの普遍的な歴史の中に個々の歴史的事象を整序することができるならば、個々の歴史事象を表す概念は、普遍的な妥当性をもつようになるだろう。歴史科学はこのように、個性的な現実の実在性に絶えず接近しつつ、これを普遍的な歴史の連関へと整序するような、普遍史の構成を課題とする。ウェーバーによれば、「その研究領域は一般に、現実の中でわれわれにとって本質的なもの(知るに値するもの)が、その現象のもつ類的なものと合致するようなところに、与えられている」[Weber WL:5『ロッシャー』15頁]。このようにウェーバーにおいてもまた、学問的認識において知るに値するものは、類的なものとしての普遍史のなかに連関を見いださなければならないとされたのである。

 しかし今日の学問的地平からみるならば、そのような普遍史を構成することは、人間学や方法論上のさまざまな問題をはらんでいる[橋本 1999:296f]。ごく素朴に考えた場合でも、歴史の単一性や必然性は疑わしく思えるだろう。そこでもし、この普遍史という条件を外すならば、学問的認識における概念的現実の構成は、どのように条件づけられるのだろうか。普遍的な単一性への志向をもたなければ、概念の構成は、認識関心に応じて「他でもありうる」という偶有的性格をもつ。また、その構成が現実に妥当する可能性を問わなければ、概念構成の一貫性や認識関心との整合性のみが問われることになるだろう。このような方向にすすむ場合、われわれはいかにして概念的現実の構成を正当化しうるのだろうか。

 この問題に対して取りうる態度は、およそ四つある。一つは、概念的構成をたんなる仮説とみなして、現実というものを日常的世界や出来事に限定するという道である。これは一般に、実証的な科学者のとる立場である。もう一つは、概念的構成という考え方を拒否し、概念なるものが日常的世界の背後ないし深層に存在すると考える立場がある。これは従来、マルクス主義の社会理論によって代表されてきたが、現在では例えば、バスカーやローソンのような論客によって代表される。第三に、概念構成が「偶有的」であることを承認しつつ、世界の現実もまた「偶有的」なのだと考える立場がある。そこにおいて概念は、それがいかに偶有的で恣意的に見えようとも、現実であるとみなしうることになる。このような世界の実在的偶有性は、ルーマンの社会理論において想定された。第四の立場は、パーソンズに代表されるような一般理論の立場であり、それによれば概念の実在的性格は、分析的に与えられるとみなしうる。

 この最後の立場については、少し敷衍して説明しておきたい。パーソンズは、理念型という概念構成の意義について、次のように述べている。「一般的概念構成を理念型のみに限定することは、方法論的原子主義をもたらすようなあの硬直性という要素を導入することになる。このように理念型が実体化されると、そこに帰結するものは歴史の『モザイク』理論か、あるいは硬直化した進化論的図式である。ここでのこれら両者に対する唯一の防御策といえば、この類概念の虚構的性格を主張することだけである」[Parsons 1937=1976-1989:W230]。「理念型と事実とのあいだのギャップは、蓋然性という概念によって橋渡しされている。このギャップは、理念型的概念が経験的にはつねに正確さを欠いており、しかもこのギャップが事実の目安であり、ウェーバーを理念型の実体化の危険から守っているものである。しかし他方で次のことが注意されるべきである。分析概念というものは、それが厳密に理論的に定式化されている場合には、こうした性格づけを必要としないということである。なぜなら、それは理念型と同じ意味で虚構的であるのではないからである」[Parsons 1937=1976-1989:W244]。

 ここでパーソンズが主張しているのは、ウェーバーにおける理念型のような概念構成とは別に、具体的事象の一般的特質を述べた「分析的な普遍概念」というものが存在しうるということである。例えば「太陽は『質量』という特徴をもつ」という場合、質量は、太陽の特徴の一つを一般化した概念であるが、しかし「太陽は質量である」とは言えない。これに対して例えば、「ジョージ・ワシントンは『男』という特徴をもつ」という場合、「ジョージ・ワシントンは男である」と言うことができる。「質量」と「男」の違いは、それを述語として用いたときに、主語とイコールで結べるかどうかにある。分析的な普遍概念は、主語とイコールでは結びつけることができないが、しかし条件的特徴や平均的特徴といった「加工による構成」を伴わない点において、それは実在的性格をもつということができる。

 以上におけるパーソンズの主張は、次のように捉え返すことができるだろう。例えば、「ゲマインシャフト」という概念を分析に用いる場合、この概念は、「現実の虚構化」と「実在の確認」という二つの側面をもつ。「現実の虚構化」とは、歴史的諸事象の純粋化ないし抽象化のことであり、この手続きによって理念型を構成するならば、現実と概念のあいだの距離を測ることができる。これに対して「実在の確認」とは、現実の社会組織が「ゲマインシャフト」を分析的に抽出しうるだけの諸特徴をもっていたことの確認である。すなわち、現実の実在は概念的に抽出されうる諸要素から構成されているとみなして、諸概念の分析的摘出は実在に迫ることであると考える。この点に注目するならば、概念構成は、虚構ではなく、むしろ実在の摘出であり、概念そのものが実在を構成する要素なのだといえよう。そのような実在は、なるほど個々の概念の摘出においては恣意的にしか与えられないが、しかし概念の構成が体系的に与えられる場合には、実在は正当に認識されうる。概念間の関係を明確に規定することは、実在をより明確に規定することにつながるからである。このように分析的普遍概念は、ある側面から社会の実在を捉えることができるのであり、普遍史を想定しなくても、概念的現実を必然的なものとして構成することができる。

 こうしたパーソンズの方法的立場は、概念構成にもとづく社会理論の創造という観点からみた場合、なるほど一定の意義をもつように思われる。しかしパーソンズにおいて考慮されていない事柄は、そのようにして構成された現実が、一定の規範的問題や世界観の問題に結びついており、したがってそこにおいてはつねに「神々の闘争」が問題となるという点である。概念構成によって与えられる現実は、なるほど体系構成において必然性を与えられるとしても、他の概念構成とのあいだに価値上の闘争関係をもつのであり、その限りにおいて現実は、偶有的なものとして現れる。ウェーバーの観点からみるならば、パーソンズの見解は、概念構成の企てが神々の闘争に巻き込まれることの自覚を促すことができない点に問題を残す。またルーマン的な観点からみるならば、パーソンズにおいては世界の偶有性が概念構成において捉えられていない、ということになるだろう。こうした問題をうまく処理するためには、もう一度ウェーバーのいう「理念型」の方法的意義に立ち戻って、概念的現実の構成を検討してみなければならない。

 

 

 

3.理念型構成の意義

 

 「理念型」とは、現実を学問的に理解するために、概念を仮説的・人為的・整合的に構成したものである。ウェーバーによれば、理念型は、現実に存在するものではなく、一定の思想像に結合されたものである。すなわち、

 

「理念型が獲得されるのは、一つの、あるいはいくつかの観点をそれだけ強く一面的に高め、そしてその観点に適応するような個々の現象を、すなわち、ここには多く、かしこには少なく、ところによっては全くないというように分散して存在しているおびただしい個々の現象を、それ自体として統一されたひとつの思想像に結合することによってである。この思想像は、概念的に純粋な姿では、現実のどこかに経験的に見いだされるようなものでは決してない。それは一つのユートピアである」[Weber WL:190『客観性』113頁]。

 

 ここで理念型は、概念的に構成されたユートピアであるとされている。しかしユートピアは、なるほど虚構的性格をもつとは言え、それがうまく構成された場合には、一つの「概念的現実」となりうる。描かれたユートピアの社会的・実在的性格を強調する「ユートピアン・リアリズム」の見解は、ウェーバーの理念型がもつ存在性格についても当てはまる。前節で引用した「ロッシャー」論文の文章からも分かるように、適切に構成された概念は、一定の実在的性格をもつことができる。理念型は、概念的に構成されたもう一つの現実であり、概念的現実に他ならない。

 かりにもし、理念型がまったくの虚構にすぎないとすれば、理念型を通じた因果関係の帰属は、具体的事実と虚構的理念を結びつけることを意味するだろう。その場合、因果関係の帰属は、現実の外部との関係においてなされるのであり、したがって、そこにおいて参照された因果関係それ自体もまた、現実の構成要素ではない、ということになる。言い換えれば、理念型を参照する因果関係は、現実にある無数の因果関係の中から選びとられるのではなくて、理念型の構成によって新たに創出されるということになるだろう。

 しかしこうした考え方は適切ではない。理念型はユートピアであるとはいえ、単なる認識の道具や作業仮説といったものではない。理念型を用いて経験的現実を理解することは、概念的現実の構成を通じて、自らの環境的世界=現実を変容させることに資するだろう。そもそも理念型による現実の理解は、個々の生活世界や日常的現実を超える理解をもたらす以上、経験的現実としての環境世界を一定のままにしてはおかない。理念型は、虚構的性格をもつと同時に、実在的性格をもっており、両者の性格の複合体として存在しているということができるだろう。このことは、われわれの生きる環境世界としての現実というものが、強固な制約条件でもなければ、まったく可変的なものでもないという性質に由来しているように思われる。

 そこで問題は、理念型をいかに構成するかという点にある。理念型の構成は、われわれが社会生活(とりわけ認識の生活)を営む上で、行為の可能性と制約をもたらす「環境的世界」をいかに認識するかという問題と相即的である。次に、理念型の構成の仕方について、「発生的理念型」と「形相的理念型」を区別しながら検討してみよう。

 ウェーバーにおける理念型の基本的な規定は、次の文章に表れている。

 

「……理念型は、歴史的個体あるいはその個々の構成部分を、発生的(genetische)な概念において把握しようとする試みである。……私がいま、『宗派』の概念を、発生的に、すなわち『宗派精神』が近代文化に対してもった、特定の重要な文化意義に関連させて理解しようとすれば、宗派と近代文化のもつ一定の諸標識だけが、本質的となろう。というのも、宗派のもつ一定の諸標識が、近代文化への影響に対して適合的な因果関係にあるからである」[Weber WL:194-95『客観性』120頁]。

 

 われわれはこの引用にみられる理念型の規定を、「発生的理念型」の特徴として位置づけることができる。歴史的個体の形成に注目して理念型を作る場合、そこでは、歴史的発生において個体の因果連関を理解することが課題となる。シェルティングによれば、「中世都市経済」や「キリスト教」という理念型は、歴史的個体である[Schelting 1922=1977:197]。これらは繰り返しのできない理念型であり、また、歴史的個別性の意義を他の歴史的個別性と比較するために導入されたものである。歴史的個体の理念型は、そこに統括された個々のものの多様さに対しては類的であるが、歴史的比較の中では個性的である。「一回的で移植困難な歴史的個体性」として理解される理念型は、それ自体がすでに、理論的把握を超えて、歴史の因果連関を構成するための実在的部分として位置づけられる。

 これに対して「形相的理念型」は、概念を構成するための観点を、歴史から離れて超越的に設定しようとする。例えば理論経済学における諸概念は、形相的理念型として位置づけられるだろう[2]。そしてそこでは、超越的なレベルにおいて概念間の関係を理解することが課題となる。

 ただし例えば「経済人」という理念型を構成する場合、「ロビンソン・クルーソー型」という歴史的な意義をもつ人間類型を構成するか、それとも「合理的行為の論理的無矛盾性」を中心とする分析的な理念型を構成するか、という問題がある。経済的自立性、計算能力の発揮、長期的予測能力の発揮、道具的理性の発揮、自己統御力の発揮、といった特徴をもつロビンソン・クルーソー型の人間は、なるほどどの時代にも存在するかもしれないが、しかしその理念型は、そのタイプの人間が多く存在した時代の社会的・文化的な状況に根差しており、歴史的発展の因果関係のなかで理解されることが相応しい。そのような人間は一定の社会的・文化的状況において多く育まれるので、不可逆的で歴史的な性格をもっているからである。これに対して分析的なレベルにおける合理的個人は、どの歴史にも左右されない特徴をもっており、それは超越的な実在であると言える。例えば完全情報に基づく合理的意思決定といった仮定は、純粋に形式な分析や文化的意味の比較に用いる際に有用であり、形相的理念型として位置づけられるだろう。

 発生的理念型と形相的理念型の区別は、しかし詳しくみるならば、その特徴づけによって区別されるというよりも、むしろどのような分析に用いるかによって区別されるにすぎない。例えば「愛」や「資本」といったものに関する理念型の構成は、同じ特徴づけを、発生的理念型と形相的理念型の二つに用いることができる。こうした理念は、どこかの歴史において発生的に捉えるならば歴史的理念型として機能するが、われわれの生きる社会との関係において評価したり位置づけたりする場合には、形相的理念型として位置づけられるだろう。ウェーバーの社会学においてはこうした二つの機能が絶妙に結びついているが、われわれは分析的に、二つの理念型の機能や意義を区別することができる。

 その場合、発生的理念型を構成する意義は、次の点にまとめられる。第一に、経験的現実を理念型と比較すること。第二に、この理念型と経験的現実との対比や、この理念型から経験的現実がもつ距離や、この理念型に対する経験的現実の相対的近似を、確定すること[Weber WL:536『価値自由』117頁]。第三に、因果的な帰属判断ができるようになること。第四に、仮説の構成に方向を与えること[Weber WL:190『客観性』112頁]。以上である。要するに、発生的理念型を構成することの意義は、歴史の因果連関を再構成することにある。

 これに対して形相的理念型の意義は、むしろ文化的意味の連関を他の文化的意味との比較において鋭く認識し、意味付与をすることのできる人間を陶冶することにあると考えられる。レーヴィットはウェーバーの理念型について、次のように述べている。

 

「理念型の『構成』は、特殊な意味で『幻想から解放された』人間をその根底にもっている。その人間とは、客観的に無意味になり、酔いから醒め、そのかぎりにおいて非常に『現実主義的』になった世界から、自分自身に投げ返され、その結果いまや対象のもつ意義と意味連関を、およそ現実に対する関係を、なによりもまず『自分のもの』としてみずから確立し、そして理論的・実践的に意味を『作り出』さざるをえなくなった人間である」[Löwith 1932=1966:39]。

 

 ここで理念型を構成する意義は、現代社会において、対象に対する曖昧な意味づけを剥奪しつつ、新たに明確な意味を与えることにあるとされている。なるほど理念型を構成するだけでは、文化的意味を付与するまでには至らない。しかし理念型の構成は、文化意義を鋭く認識することに資するだろう。ウェーバーによれば、理念型を構成する目的は、類的なものを意識することにあるのではなく、むしろ反対に、諸現象の特性を鋭く意識するという点にある[Weber WL:202『客観性』137頁]。われわれはこうした機能を、とりわけ形相的理念型の構成に認めることができるだろう。発生的理念型は、その理念が発生した歴史の固有性を認識するために資するが、これに対して形相的理念型は、以下に述べるように、われわれが生きている意味世界と理念型との間の距離を測ることを直接的に可能にする。

 日常においては、存在がもつ特性としての「理念」と、そこに理想的価値を投影した場合の「理念」とが、入り交じっている。「『あるもの』に対する評価」と、「『あるべきもの』としての評価」とは、重ね合わさっている。例えば、「新入生がうるわしい」のは、その「存在」に対する評価であると同時に、一つの理想的価値の投影でもある。また「共同体」という概念は、一定の集団を特徴づける評価的認識であると同時に、「あるべき人間関係」としての理想を投影した評価を含んでおり、また、理想とは逆の人間関係を投影した評価をも含んでいる。形相的理念型を構成することは、こうした評価の錯綜を解くための手段であると同時に、理想や価値や意義といったものを明確に意識化するための手段でもある。形相的理念型を構成する力は、価値を自覚的・主体的に付与する能力を陶冶することができる。言い換えれば、「形相的理念型」の意義は、それを構成する能力が、観察者の主体性を陶冶するという点にあるだろう。

 また他方において形相的理念型の構成は、思想や感情を負荷した説明を批判する場合にも有効である。例えば「資本主義は労働者を搾取するシステムである」とか「資本主義は資本の動きを制御できないシステムである」といった説明は、一定の価値評価を曖昧なかたちで含んでいる。このような説明に対して、各人がそれぞれ、理念型としての資本主義(例えば、私的所有、市場メカニズム、利潤・利益の最大化原理などの特徴)を鋭く構成し、それを例えば「共産主義」という理念型と比較しながら説明することができるならば、「資本主義」に対する価値評価を、明確になしうるだろう。

 ただしウェーバーが述べるように、文化的意味(価値)と理念型を区別することは、しばしば容易ではない。第一に、実践的・理論的な思想傾向の意味における「理念」と、その時代の特徴を示すための概念的な補助手段としての「理念」は、一致する場合が多く、したがってそれを明確に区別することが困難な場合がある。第二に、われわれは理念型に実践的な「模範型」の機能を負荷させてしまうことが多い。この場合、理念は理想となり、この理想に基づいて現実が価値判断されることになり、経験科学の地盤は見捨てられ、一つの個人的な信仰告白に終わってしまうことにもなるだろう。

 このように、形相的理念型を構成することの困難は、事実と価値を明確にすることの困難に起因している。事実と価値が複雑に結びついたところでは、理念型は、単に「生の現実」や「日常的現実」の因果関係から構成されるだけでなく、理念や価値や文化意義といった規範的領域との関係においても分節化されなければならない。しかしそれが明確に分離できないところでは、規範的な価値がつねに現実的要請をもって現れてくる。それはわれわれの現実というものが、曖昧なかたちで価値評価を含んでおり、逃れえない現実を構成しているからであろう。最後にこの点を問題にしたい。

 

 

 

4.規範的現実

 

 われわれは日常生活において、現実の対象に評価を加えながら生活を営んでいる。「今日は平日なので早起きしなければならない」、「最近の日本社会は病んでいる」、「最近はネクタイをしなくても出社してよいようだ」、等々。こうした評価は、人々の総論的・通念的な評価であると同時に、大した理由をもたないという点で曖昧な(無反省的な)評価である。なるほどわれわれは、時には自らユニークな評価を試みることもあるが、しかし多くの事柄については総論的な評価を採用しており、そうした無反省的な評価の意図せざる結果として、一つの逃れがたい現実(行為の環境的世界)を社会的に生み出している。ここではそのような現実を、「規範的現実」と呼ぶことにしよう。

 規範的現実は、単純な社会においては強固に働くが、しかし社会が複雑化して価値評価が多元化すると、そうした強固な性格は失われていく。規範的現実が希薄化するならば、われわれは多くの事柄について「他でありうる」という感覚をもつようになる。「あらゆることが可能なのかもしれない」という感覚は、世界の偶有化がもたらすもう一つの現実である。そこでは、過剰な可能性と偶有性を前にして、意味ある行為を選択することができないという事態が生じることにもなる。

 理念型という概念構成が現代において意義をもつとすれば、こうした規範的現実の希薄化と偶有化に対して、各人の価値に対する感受性を高めることにあるだろう。規範的現実が曖昧で偶有的であるならば、そのような環境的世界を行為の制約条件や可能条件として認定することは適切ではない。社会学の方法によって啓蒙しうる主体の理想は、理念型の構成を通じて、われわれの環境的世界(とりわけ規範的現実)を分節化しつつ、自らの行為に「特殊な文化意義」を与える存在である。そしてその場合に必要な理念型は、前節で論じたように、形相的理念型である。

 形相的理念型によって理解される現実は、虚構に対比される現実ではない。それはまた、疎外された現実に対比される「生の現実」でもなければ、マージナル(アブノーマル)に対比される通念としての現実でもない。形相的理念型がめざす現実認識は、さしあたってまず、世界の現実が偶有化していることの認識であり、そこにおいて現実は、かぎりなく非現実との境界線を曖昧にしていくようなものとして存在する。形相的理念型はこうした現実を捉えて、そこに価値的な問題があることを分節化するのに役立つだろう。それが実在的性格をもつのは、価値問題が現実に迫真性をもつことに由来する。

 なるほど複雑化した現代において、社会に対する学問的認識(観察)は、一方において、偶有化した世界に戯れる「浮遊した主体」を生み出している。彼らは行為ではなく表象に照準することによって、偶有化そのものを享受する道を選んでいる。しかし他方では、概念構成を怠って経験的現実を集めるような、「経験の具体的個別性に没入する主体」が輩出されており、彼らは具体的な場面に身を置くことによって、行為の可能性を最初から縮減してしまっている。これに対して形相的理念型を構成することの意義は、文化的意義を付与することが争われているような現実を、規範的に問題化する点にあるだろう。

 もしわれわれが既存の個別的な文脈を超えて行為する意志をもつならば、社会認識というものは、一方において行為の可能的条件を広げつつ、他方においてそうした可能性を縮減することを目指さなければならない。行為を導く信念と認識は、それが十分に曖昧な場合に、したがってある一定の段階で認識を断念した場合に、行為を喚起するということがある。事実と規範を分離しながら自らの行為の意味を明確に認識することは、それをどこかで断念することが行為とその信念の条件になっているのであり、こうしたパラドキシカルな事態を引き受けることが、現実の認識に課されている。とすれば、社会における現実認識の課題は、事実と価値を極限まで分離していくことにあるのではない。むしろ価値について争われる現実を問題化し、そこに身を置くことができるように、価値次元における現実を構成していくことが必要であろう。形相的理念型の意義は、偶有化する現実を問題化し、そこに問題としての文化意義を付与する点にある。前述したように、パーソンズにおける分析的普遍概念の構成は、こうした価値について争いうる現実を問題化しなかった。またルーマンによる世界の偶有性の認識は、あらゆる可能性を認識するために、行為への意志を断念しなければならなかった。ウェーバーにおける発生的理念型論も、規範や価値を直接には問題にしていない。これに対して形相的理念型の構成は、偶有化した規範的現実を問題化しつつ、そこに価値の対立を持ち込むことによって、意義深い行為の可能性を与えうる。ある意味で現実を認識するとは、神々の闘争を認識することであり、それは経験的ないし規範的な現実に設けられた複雑性の落差を超えて、上位レベルに問題を持ち込むことである。現実認識の答えは、もう一つ別の現実を問題として要請するのであり、現実に迫るためには、認識における弁証法的な移動の余地を残しておかなければならない。

 

 

 

◆文献

出口勇蔵 [1966]『増補 ウェーバーの経済学方法論』ミネルヴァ書房.

橋本努 [1999]『社会科学の人間学』勁草書房.

――― [1995]「A・シュッツの方法論に関する批判的考察――オーストリア学派との関係から」『社会学評論』vol.46,no.2.

Kocka, Jürgen [1966] “Karl Marx und Max Weber: Ein methodologischer Vergleich”, in Zeitschrift für die Gesamte Staatswissenschaft, no.122.

Löwith [1932=1966] “Max Weber und Karl Marx”, Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd.67.レーヴィット『ウェーバーとマルクス』柴田治三郎/脇圭平/安藤英治訳、未来社.

Parsons [1937=1976-1989] The Structure of Social Action: A Study in Social Theory with Special Reference to A Group of Recent European Writers, McGraw Hill. パーソンズ『社会的行為の構造(全五巻)』稲上毅/厚東洋輔/溝部明男訳、木鐸社.

Rickert [1898=1939] Kulturwissenschaft und Naturwissenschaft, リッケルト『文化科学と自然科学』佐竹哲雄/豊川昇訳、岩波文庫.

Schelting [1922=1977] “Die logische Theorie der historischen Kulturwissenschaft von Max Weber und im besonderen sein Begriff des Idealtypus”, in Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd. 49.シェルティング『ウェーバー社会学の方法論――理念型を中心に』石坂巖訳、れんが書房.

Schütz,Alfred [1932→1960] Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt, Vienna, Springer-Verlag.シュッツ『社会的世界の意味構成』佐藤嘉一訳、木鐸社.

Weber [WL] Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, Tübingen, J.C.B. Mohr. 1985.

―――『価値自由』木本幸造監訳『社会学・経済学における「価値自由」の意味』日本評論社、1972.

―――『客観性』富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫、1998.

―――『批判的研究』森岡弘通訳『歴史は科学か』みすず書房、1965.

―――『ロッシャー』松井秀親訳『ロッシャーとクニース』未来社、1988.

 

 

(はしもと・つとむ 北海道大学経済学部助教授 著書『自由の論法――ポパー・ミーゼス・ハイエク』創文社、一九九四年、『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』勁草書房、一九九九年)

 



[1] コッカ[Kocha 1966:336f]は、概念的現実が存在的(ontisch)な現実であると考える。概念的現実は、学問的認識者の観点(立脚点)によって体系的に構成されるが、その観点は、その時代の文化的状況によって媒介されるのであり、したがって概念的現実は広い意味での文化の構造において存在すると言うことができる。コッカは、このレベルの現実をウェーバーが見落としていると批判している。また出口[1966:128]は、ウェーバーの理念型論が不可知論であると批判する。出口によれば、ウェーバーの科学論は実践的な認識に対して技術論的な認識しかもたらさない点でも不可知論である。しかし以下に述べるように、こうした批判はいずれも、ウェーバーに対する正当な評価ではない。

[2] 形相的理念型の考え方については、Schütz[19321960:337-38]を参照。ただし以下では、シュッツの規定を超えて、理念型と価値の関係を問題にする。シュッツに対する私の批判的検討については、橋本努[1995]を参照願いたい。